CESA:一般社団法人コンピュータエンターテインメント協会

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ゲーム産業の系譜

スコット 津村

スコット津村【第1回】

1970-1980年代

ビデオゲーム業界の軌跡に見え隠れする自分の半生

写真

スコット津村(Scott Tsumura)

Tozai, Inc.
エグゼクティブ・プロデューサー

1942年、愛知県名古屋市生まれ。米国ワシントン州在住。メダルゲーム機の製作販売などを経てIPM(後のアイレム)に入社、『ムーンパトロール』『スパルタンX』『ロードランナー』『スペランカー』などを手がける。1988年に渡米後、キョーダイソフトウェア、ブレットプルーフソフトウェア、Tozai,Inc.、ニンテンドーソフトウェアテクノロジーなどを設立し社長を歴任。現在はTozai,Inc.でエグゼクティブ・プロデューサーを務める業界歴40年の現役ゲームクリエイター。

第1回PCエンジンがもたらした新たな波

2015年3月23日掲載

私がアミューズメント業界に入ったのは1976年でした。大学を出てから仕事を転々としていたころに、ある友人が、今非常に繁盛している商売があるから一緒にやろうと誘ってくれたのです。

1970年代前半に、『ロタミント』というドイツ生まれのメダルゲーム機がありました。ドイツ本国での発売後、このメダルゲーム機の中古品が日本にも輸入されるのですが、流通の過程において、メダルではなく100円玉が通るように改造する業者が現れました。今で言うところのいわゆる「違法改造のメダルゲーム機」ですね。この改造ゲーム機を喫茶店やバーに置くと、1日で1台あたり数十万円も稼げたのです。

私が頼まれた仕事というのは、その『ロタミント』をドイツから輸入したり、ましてや違法改造のメダルゲーム機を作るのではなく、「一緒に日本国産のメダルゲーム機を自作してみないか」というものでした。

『ロタミント』が登場する以前、ゲーム機が置かれる場所といえば、百貨店の屋上や遊園地しかありませんでした。しかしメダルゲーム機が人気を集めたことにより、ロケーションの場所が従来の箇所より格段に広がることになります。のちに『ブロックくずし』や『スペースインベーダー』が登場してビデオゲーム機が大流行しますが、『ロタミント』はその先鞭をつけたといえるでしょう。

『スペースインベーダー』が流行した1978年ごろ、子供用メダルゲーム機の製作で取引のあった現カプコンCEOで当時はIPMという会社を経営していた辻本憲三さんから、テーブル型ビデオゲーム機を作れないかという問い合わせがあり、協力することになりました。つてを頼って訪ねた京都の村田製作所には断られましたが、関連会社を紹介され、結果的に七尾電機に製造してもらえることになったのです。この会社は今のEIZOですね。そして『ブロックくずし』や『スペースインベーダー』のライセンスを受けて何万台と作り、IPMが大々的にオペレーションしました。私はやがてIPMの社員となり、IPMは後にアイレムと社名を変えます。

その後、アイレムでオリジナルのゲームを作ろうということになり、開発部を立ち上げて部長に就任しました。それで最初に作ったのが『ムーンパトロール』で、あとは『10ヤードファイト』『ジッピーレース』、それから『スパルタンX』『ロードランナー』『スペランカー』などと続きました。この1983、4年ごろは、アイレムのアーケードゲームの黄金時代でした。

『ロードランナー』はPCゲームでしたが、米国のブローダーバンド(Broderbund Software, Inc.)からアーケードのライセンスを得て1984年7月に発売しました。1980年代前半、日本のゲーム産業の背景として、アーケードゲーム会社には「ゲーム作りのプライド」があり、「パソコン用ゲームを容易にアーケードゲームに移植するようなことはしない」ということが不文律として存在しました。そのため、今回のパソコン版『ロードランナー』のアーケードゲームへの移植についても、社内で「売れるはずが無い」等という反発意見が多数ありました。しかし、アーケードゲームとしてのキャラクターやゲーム性の追加など開発の苦労もありましたが、ハドソンさんが権利を取得したファミコン版『ロードランナー』が数か月前に発売され、期待通りに大人気だったこともあって、相乗的に私たちのアーケード版もかなりヒットしました。結果的には『ロードランナーIV』まで出しましたね。

『ロードランナー』がとりもった縁で、再びブローダーバンド社からライセンスを受けたのがファミコン版『スペランカー』です。一方、同時期にスティーブン・スピルバーグが製作総指揮を務めた『グーニーズ』という映画が米国で公開され大ヒットしました。同じ地底洞窟探検がテーマだったので、「『スペランカー』の原作ゲームをベースに、『グーニーズ』のキャラクターを乗せてゲーム化したらお客さんに受けるのではないか」と思いました。しかし、そんな構想をよそに『グーニーズ』の版権が他社に取られてしまいます。そのため、同じテーマである『スペランカー』を何とかヒットさせるべく、映画『グーニーズ』が日本で上映される1985年12月のタイミングにぶつける必要があると考えました。この頃からターゲットを定めたマーケティングを行っていたとも言えます。必ず予定通りに発売せねばならないと、開発着手から半年程度で作り上げました。アーケード版も翌年2月にリリースできました。

一方、同じ年の9月にファミコンで『スーパーマリオブラザース』が出て、大ヒットしていました。『スペランカー』も同じ横スクロールのアクションゲームなので、二番煎じの生ぬるいゲームと言われないために、ハードな個性がでるよう思い切りプレイ難度を上げて、達成感を高める方針で開発することになりました。そのゲームバランスには苦労しましたが、難しいといっても理不尽なものではなく、あきらめずに何度も練習を積めばクリアできる難しさを設計しました。そこで、いわゆる「ゲーム史上最弱のキャラクター」が誕生したわけです。

私たちが『グーニーズ』の版権を使っていたら、100万本以上売れて大きな利益を上げていたかもしれません。『スペランカー』は約60万本でした。しかしその代わりに、今でも愛すべき財産として、『スペランカー』を持っています。つい先日、共同制作した「みんなでスペランカーZ PS4」がスクウェア・エニックスさんからPSNで発売されました。最弱のキャラクターですが、まだ頑張ってます。とにかく『スペランカー』は諸々の思いが残っているゲームですね。

1987年にPCエンジンが発売されたとき、同年にアイレムがアーケードゲームで発売し大ヒットした『R-TYPE』を、ハドソンがPCエンジンで出したいという話がありました。それまでの家庭用ゲーム機の処理能力やグラフィックスでは『R-TYPE』の移植はムリでしたが、PCエンジンならなんとかなると言われたのです。しかし、会社がライセンスを承認してくれませんでした。『R-TYPE』のようにスピード感や色彩が優れたシューティングゲームまで移植できるような家庭用ゲーム機が普及したら、アーケードゲームがなくなってしまうと思われたのです。私は「将来は家庭用ゲーム機の時代が来るから、その草分けになりましょう」と説得し、ようやく承諾を得ました。こうしてハドソンと協力し、1988年3月に『R-TYPE I』、6月に『R-TYPE II』が発売されました。『R-TYPE』が家庭用ゲーム機に移植されたということで、反響は凄かったですね。

日本のゲーム産業において、アーケードゲーム・パソコン用ゲームをそれぞれ「日本のゲーム産業の第一・第二の波」ととらえた時、「第三の波」が家庭用ゲーム、中でも「ファミコン」だという話があります。その話を踏まえた上で、私にとって「PCエンジン」とは「第四の波」ともいえるものでした。アーケードゲームから家庭用ゲームへ移っていくひとつの節目だったと思っています。