ゲーム産業の系譜
ファミコンの開発者が語る日本の家庭用ゲーム産業の幕開け
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立命館大学 映像学部 客員教授
上村 雅之 - Masayuki Uemura
1943年、東京都生まれ。幼少時より高校卒業まで京都在住。1967年千葉工業大学工学部電子工学科卒業、早川電機工業株式会社(現・シャープ株式会社)入社。光半導体の光検出器販売部門で製品の開発および営業活動を行う。1971年任天堂に移籍。開発第2部部長として1983年に「ファミリーコンピュータ」を発表。大ヒット商品を世に送り出す。2003年、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授に就任。2015年度末まで任天堂株式会社では開発アドバイザーを務め、現在は立命館大学映像学部客員教授。
第1回シャープで始まった技術者人生、任天堂との出会い
2024年09月02日掲載
私はテレビの技術者になりたくて大学で電子回路を学び、1967(昭和42)年に大学卒業後、早川電機工業(現・シャープ/以下、シャープで統一)に入社しました。ところが、その頃のシャープは、開発の主軸をテレビからコンピューターと半導体に移しており、私は最初、コンピューターの開発部門に行くよう言われてしまったのでした。
しかも私は関西で働きたいと思っていたのに、その部署は東京にありました。実は私は就職にあたって、大学の先生から在京の会社を紹介されていたのですが、それを断って関西のシャープに入ったものですから、今さら手を翻して東京に戻るわけにはいきません。そこで、人事課長に掛け合ったところ、東京で働きたかったのに関西に配属されたという、私とちょうど反対の立場の人がいたので、その人と配属先を入れ替われることになりました。その配属先とは、光半導体の光検出器販売部門でした。
もっとも、私が半導体部門に配属された理由は、今考えるとそれだけではなかったようです。創業者の早川徳次さんが健在だった当時は、常に危機感を持って、松下電器産業(現・パナソニック)や東芝との熾烈な競争に挑んでいました。研究開発部門もそうです。一般の会社では「研究開発員は研究所で研究を行い、研究成果が出たら、また別の新しい研究を行う」というのが普通ですが、シャープで私の配属された部署では「研究成果の開発者が必ず自ら現場へ営業に出て、市場を開拓し事業化すべし」という方針を採っていました。ところが、半導体に関しては、半導体の研究者は物理学を専攻した人が多いのに対し、実際に半導体を製品として必要とする取引先の担当者は、電子回路の技術者であることがほとんどで、コミュニケーションをとるのに苦労した部分があります。そこで、半導体の商談をするにあたっては、電子回路を学んだ私への期待が大きかったということのようでした。
とはいえ、半導体それ自体、大学で一通り習ってはいたものの、実は現物を見るのは初めてでしたし、そのうえ、現場への営業回りなど知らないことばかりです。手形の扱い方や新規取引先の信用調査なども含めて、仕事の中で一から必死で勉強していきました。それでも2年ほど経つとすっかり任されるようになり、担当地域も九州から東は静岡県まで広がりました。製鉄業の工程で光半導体が急速に普及し、当時の八幡製鐵、富士製鐵(両社合併し現在「新日鐵住金」)などと取引をさせていただきました。愛知の豊田自動織機や、その下請け工場の数々とは、縦糸の糸切れを検出するセンサーを共同で開発しました。ヤマハや河合楽器といった楽器メーカーとのご縁もありました。
最も多くの取引があったのは神戸工業(現・富士通)だったでしょうか。当時、紙に穴を開けて情報を記録するパンチカードというメディアがありましたが、その読み取り装置に光半導体が使われていたのでした。また、三菱重工業など三菱グループとの取引も大きいものでした。特に親しくお付き合いさせていただいたのは三菱電機です。新しい技術についていろいろなことを教えていただきましたし、それらが具体的なビジネスに発展して一緒に開発をおこなったことも多々ありました。当時の担当課長のみなさんの名刺もいまだに持っていますが、これらの方々は軒並み役員になっておられます。まさにシャープ時代に私が得た大きな財産の一つといえると思います。
こうした多くの素晴らしい出会いの一つに、任天堂とのそれもありました。あるとき、京都シャープの社長に「京都に『任天堂』という会社があるのだが、1回行ってみたらどうか」と薦められたのです。私は社名を知っていた程度で、てっきり東京の会社だと思っていたのですが、京阪電車沿線の東福寺の近くにあると聞き、見覚えある社屋に思い当たったのでした。
そうして、1968年5月に初めて任天堂に訪問することになり、山内溥社長(当時)や、開発担当の横井軍平さんにお会いしました。すると、同行した上司がまず山内社長の面白さを大いに気に入ったようで、何も決まっていないうちから、「さっそく何か仕事を取ってこい」と命じられました。急いで任天堂の信用調査を行い、主力製品であるトランプの売上は順調、花札もシェアが高く、資産状況に問題はないことを確かめた覚えがあります。
シャープの光半導体製品を紹介していく中で、横井さんは太陽電池に興味を持たれたようでした。「光線銃に使えるのではないか」というのです。光線銃は、銃口から放たれた光をセンサーで検知するわけですが、当時、光センサーとして一般的に使われていたCdS(硫化カドミウム)は、応答速度が遅くしばしば誤動作を起こすため、光線銃のセンサーとしては不十分でした。そこで、応答速度が早いシャープの太陽電池が目に止まったというわけです。
そこでさっそく、同年7月から、横井さんと光線銃の設計に関する技術打ち合わせを開始しました。光線銃用のセンサーは、室内の蛍光灯の雑音対策や、コスト面など、問題も数多くありましたが、互いに苦労して工夫を重ね、製品化に向けて一つ一つ解決していきました。同年12月には試作機が完成、山内社長へのデモを行い、翌1969年5月、ついに任天堂とシャープが正式な売買契約の締結に至ったのでした。
同年11月には、光線銃に使用する特注の光電素子量産試作品がシャープの郡山工場で完成し、製品の発売開始が1970年5月に決定、ついに生産開始までこぎつけます。良好な信用調査の結果を頼りに大量発注にも応じ、初回から50万個もの生産数となりましたが、おかげさまであっという間に完納となりました。私自身も製品部品をシャープの工場で車に積み込み、自分で運転して任天堂へ運んで納品していました。国道24号線を何度往復したことでしょうか(笑)。
部品供給者としては、光線銃の売れ行きが気になるわけで、私も自宅に友人を集めて商品を紹介したところ、みんな気に入って買ってくれました。またある同僚は、阪急百貨店の玩具売り場を毎日覗いて、その売れ行きを目の当たりにしていました。「ライフルや的などすべて一式揃えると3万円くらいする高額商品なのに、ちゃんと買ってくれる人がいること」「子どもよりも大人が買ってくれる分野の玩具があるということ」など、さまざまな発見がありました。そうして結局、光線銃はシリーズ累計で約160万丁が売れたのでした。
光線銃センサーの実績が社内で認められ、私たちの半導体部署は、1970年9月に初めて早川社長から表彰を受けました。そしてこれを一区切りとして、私は光半導体を使った応用製品の開発部署に異動することになりました。以前より私は、「光半導体とは別の、新しい分野での研究開発をしたい」と上司に要望を出しており、今回、一定の成果が出たことで、光半導体の卒業が認められたのでした。新しい開発部署では、かねてより光線銃に興味を持ってくれていた上司の理解のもと、晴海の国際見本市でのエレクトロニクスショーで光半導体を使った鉄道模型を作らせてもらうなど、かなり自由に開発活動をさせてもらいました。
そんな中、会社から海外赴任の打診がありました。新しい部署に異動させてもらったのは、こういった含みがあったからなのかもしれません。ところが私は当時、結婚したばかりであり、いきなり単身赴任になることにかなり抵抗がありました。
するとちょうど同時期に、任天堂から転職の誘いがあったのです。光線銃の実績が買われたからにほかありません。任天堂で長く番頭格であった沢井末造専務(当時)が「任天堂もこれから変わらないといけない。(横井)軍平君が言うように、今までとは違うことをやっていかないといけない」と力説されました。「軍平君も君が来るのを望んでいる。彼を助けてやってほしい」と言われ、転職を決断しました。
上司や同僚からは「なんでお前、おもちゃを作ってるような会社に行くんや」とずいぶん引き止められました(「いや、あんた 現に光線銃を気に入って買うてくれたやないか」と内心で思いましたが)。結局、退職は認められるのですが、実はシャープとしても、「彼が任天堂にいれば、シャープと組んで再びビジネスをすることが可能だろう」という目論見もあったようです。そして実際、それは後に「ゲーム&ウオッチ」で実現することになります。
ともかく私自身は、エレクトロニクス化されたおもちゃの開発というものができるのか、しかも京都というローカルな場所からそれが可能なのか、ただただ純粋に自分の力を試してみたいと思ったのです。「光線銃の柳の下にどじょうは何匹いるのか」私の新しいチャレンジの始まりです。