Genalagy of the Game Industry

ゲーム産業の系譜

1960-2000年代

ファミコンの開発者が語る日本の家庭用ゲーム産業の幕開け

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立命館大学 映像学部 客員教授

上村 雅之 - Masayuki Uemura

1943年、東京都生まれ。幼少時より高校卒業まで京都在住。1967年千葉工業大学工学部電子工学科卒業、早川電機工業株式会社(現・シャープ株式会社)入社。光半導体の光検出器販売部門で製品の開発および営業活動を行う。1971年任天堂に移籍。開発第2部部長として1983年に「ファミリーコンピュータ」を発表。大ヒット商品を世に送り出す。2003年、立命館大学大学院先端総合学術研究科教授に就任。2015年度末まで任天堂株式会社では開発アドバイザーを務め、現在は立命館大学映像学部客員教授。

第2回任天堂での開発三昧の日々、そしてファミコンの誕生

2024年09月02日掲載

1971年8月、私はシャープから任天堂に正式に転職し、エレクトロニクス玩具の開発を行うことになりました。当時の任天堂の開発部員というのは、会社近くに住む地元の人が多く、下駄履きでひょいと出社してくるような身軽な人達ばかりでしたので、みんな時間の経つのも忘れて開発に没頭していました。そういえば、残業をすると会社から夜食の提供もあり、うどんを食べても良かったのです。あまり残業代は高くなかったので、残業代の代わりみたいな感じですが(笑)。そうやってうどんを食べながら、ああだこうだとみんなでワイワイガヤガヤやっていると、不思議と新製品のアイディアが出てきたものです。横井さんが翌日には試作品を作ってきて、それを私が引き継いで電装部分を仕上げたり...。失敗作も多かったですが、そうやっていろいろと実験を重ね、まさに開発三昧の充実した日々を送っていました。

光線銃が大ヒットした任天堂では、山内社長が、大規模レジャー施設で光線銃を使ってクレー射撃を行う「レーザークレー」構想を打ち出しました。ブームが去ったボウリング場の跡地施設に、この射撃システムを大々的に導入しようというのです。家庭用の光線銃は1台5千円程度でしたが、今回の業務用は一式で数百万円かかりそうな、今までとは比べ物にならないほど大がかりな装置です。技術的にも相当な困難がありました。私たちが考え出した仕組みというのは、こうです。まず、射撃台の前に射撃場の風景を投射した巨大なスクリーンを張り巡らせ、そのスクリーンに、的となるクレー(皿)が飛ぶ映像を映し出します。その際、クレー映像が進む少し先に、目に見えない光線も同時に投射しておきます。この目に見えない光線がスクリーンに反射したところを、射撃手がクレー銃の銃口でうまく受光し、その瞬間に引き金を引けば「命中」ということにしたのです。

ところが、命中信号を制御装置に伝える仕組みがまず難関でした。この仕組みとして電波を利用しようと試みたのですが、この方法ではなかなか安定した動作を実現できません。試行錯誤の末、光通信を使用することで安定して動作するようになりました。また、目に見えない光線の光源をどれにするかというのも悩ましいところでした。いろいろな光源を試したのですが、結局、レーザー光を発光する当時最新の光半導体を使うしかないと判断しました。シャープには制御装置の設計の協力をお願いし、さらに複数の電子機器メーカーや半導体メーカーからの助けも得て、レーザークレーの射撃システムはようやく完成しました。

レーザークレーの第一号店は、1973年5月、京都のボウリング場跡地でオープンしました。日本初のレーザークレーは話題を呼び、初日から大盛況。お客さんの反応も上々で、国内外から続々と注文が入ってきました。今度は、その受注分を製造して、百貨店やボウリング場など各地の注文先に設置して回る仕事に追われることになったのです。必要部材を追加で大量に発注し、大規模な生産体制を整えていきました。ところが、「さあいける!」と思った矢先、「オイルショック」に見舞われ、世界経済は大混乱に陥ります。注文のキャンセルが相次ぎ、見事に仕事がなくなってしまいました。

こうして、レーザークレー事業は結果的に失敗に終わりました。会社経営上はきわめて厳しい状況に陥ってしまったわけですが、開発の過程で半導体メーカーとの接点を得たことは、技術的には後々大きなアドバンテージとなったと思います。実を言えば、私が大学で電子回路を学んでいた当時は真空管が主流でしたので、半導体についてはさほど知識があったわけではありません。とはいえ、社内には他に詳しい人もいませんし、一から独学する時間もないので、半導体メーカーの方に教えてもらうしかないわけです。そこでシャープ時代の人脈が役に立ちました。お付き合いをさせていただいた技術者の方々は当時の最高レベルの技術者ばかりです。ときには前職のシャープの技術部長のところへ出向いて行って、直々に教えを乞うこともありました。私の半導体に関する基礎技術と、さらなる多彩な技術人脈は、こうして培われていったように思うのです。

1977年には、三菱電機との共同開発により、ゲーム専用LSIを搭載したソフトウェア内蔵型の家庭用テレビゲーム機「テレビゲーム15」「テレビゲーム6」を発売しました。あくまで一般家庭向けの玩具ですから低価格で抑えないといけません。コストを抑えるには最新のLSI技術を活用する必要があり、そのためには半導体メーカーの協力が不可欠でした。任天堂の開発スタッフは三菱電機に通いつめ、「ブロック崩し」など後続シリーズの開発も通じて、LSIの設計経験を積んでいくことになります。

1978年にタイトーからアーケードゲームの「スペースインベーダー」が発売されると、たちまち「インベーダーブーム」が巻き起こり、社会現象となりました。任天堂もアーケードゲームに進出することになり、私は業務用ビデオゲームの開発責任者として、1979年から開発第2部の部長を任されることになりました。業務用ゲームは家庭用ゲームとは異なり製造原価の上限がないため、やろうと思えばいくらでも高性能の機能を盛り込めます。いくつかの機種を発売していくうちに、知識・技術の集積も進んでいきました。ただし、そのぶんコスト管理は甘くなりがちで、当時の最高水準の技術を結集した「レーダースコープ」を開発したところ、採算が合わず、私自身はアーケードゲームからの一時撤退を余儀なくされました。

他方、横井さんが率いる開発第1部は、シャープの協力を得て、携帯型LSIゲーム機の「ゲーム&ウオッチ」を開発。1980年4月の販売開始以降じわじわと人気を集め、まもなく爆発的なヒット商品となりました。アーケードゲームの方でも、宮本茂君(現・代表取締役クリエイティブフェロー)のアイディアにより誕生した「ドンキーコング」が1981年8月に稼働を開始、今までにない群を抜く面白さで、こちらも人気を博していました。多忙を極めた開発第1部は人手不足となり、私の開発第2部からもどんどん人員が割かれていきました。

そんな中、1981年11月のある日の夜、山内社長から自宅に電話がかかってきました。「『ゲーム&ウオッチ』の次を見据えて、カセット式の家庭用テレビゲーム機をつくろう」というのです。社長は「君しかいない」と言います。たしかに私はその頃アーケードゲームの仕事はしておらず、時間があったのは事実ですし、横井部長は「ゲーム&ウオッチ」で、開発第3部の竹田玄洋部長(現・代表取締役技術フェロー)はアーケードゲームのほうで忙しかったため、私しかいないと言われればその通りなのですが...。

でも正直言って、私は当時、家庭用のテレビゲームというものに対して懐疑的、というかかなり悲観的でした。当時米国で流行り始めていたパソコン仕様のテレビゲーム機というのは、英数字のキーボードが付いていて娯楽のイメージが湧かず、結局何をする機械なのかよく分かりません。そして何と言っても「テレビゲーム15」「テレビゲーム6」のときの苦い経験があったからです。テレビ(当時はアンテナ端子)との接続が不完全な場合に不要輻射が発生し、隣家のテレビにノイズが生じるというクレームや、テレビ放送が映らなくなったという苦情が相次いだため、テレビに繋ぐ方式は難しいということを痛感していたのです。社内ではあまり公言していませんでしたけれども、これが私が成功しそうに思えなかった最大の理由です。やはり、家庭向けのゲーム機としては、現在ヒットしている「ゲーム&ウオッチ」のような携帯型のほうが絶対に適していると思っていたのです。

もっとも、社長は次の日には「もうやめた」と前言をあっさり撤回するパターンも多々ありますので(笑)、今回もそうかもしれません。ところが、翌朝、出社するとさっそく社長に呼ばれて、「あれどないなった?」と依然として意欲満々です。「ああ、これは社長は本気だ、経営者として『ゲーム&ウオッチ』の先を真剣に考えた末の決断だ」ということがよくわかりました。そこで私も覚悟を決め、本腰を入れて取り組むことにしました。

ただし、開発にあたっては、社長からひとつの条件がありました。「半導体メーカーはシャープ以外にすること」。シャープは今、「ゲーム&ウオッチ」への部品生産でフル稼働しており、新製品のせいでその供給が滞ることは許されなかったからです。そこで他メーカーをあたったのですが、当時はワープロやパソコンが市場に出始めた頃で、各社ともそのためのDRAMの増産体制に入っていました。未知数な任天堂の新製品などのために部品供給をしてLSI設計の協力をしてくれそうなメーカーはなかなか見つかりません。

途方に暮れていた矢先、偶然にも、リコーの営業の方から電話がありました。大阪府池田市にある半導体工場の稼働率が上がらず困っていたそうで、「任天堂で使ってもらえないかどうか、一度工場を見に来て欲しい」というのです。そこで工場に伺ったところ、これもまたまったくの偶然なのですが、なんと「テレビゲーム15」「テレビゲーム6」でお世話になった三菱電機の浅川俊文さんが、転職してこのリコーにいらっしゃるではありませんか。浅川さんは日本の半導体の草分け的存在の、非常に実績のある技術者なのです。私と任天堂の最大のラッキーは、まさしくこの瞬間の出会いにあったのだと思います。しかも驚くことに、当時一緒に仕事をした三菱電機の半導体チームの面々もリコーに移っていたのです。これはもうすごい偶然で、どこかで時期やタイミングがちょっとでもずれていたらファミコンは生まれなかったのではないでしょうか。彼らは、新しいチャレンジに飢えていました。それで後日、浅川さんに当社へお越しいただいたところ、山内社長も浅川さんを心底気に入られて、絶大な信頼を抱かれたようでした。こうした幸運な偶然がいくつも重なり、LSIの設計・製造は、リコーをパートナーとして進んでいくことになったのでした。

ソフトウェアの開発については、アーケードゲームでの我々の経験が活かされました。アーケードゲームは百円玉だけが唯一の評価基準。おもしろくないゲームには、お客さんは百円玉を投入してくれません。そんなシビアなアーケードゲームの世界で多くの百円玉を獲得した当社作品といえば「ドンキーコング」です。「ゲーム&ウオッチ」にも移植され実績は充分です。そこで今回のローンチタイトルの一つはこの「ドンキーコング」に決定。「ドンキーコング」のおもしろさ、クオリティを、家庭用ゲーム機で実現することを目標に設定しました。実は、私たち任天堂開発スタッフも、そしてリコーのスタッフも、「自宅で好きなだけ『ドンキーコング』を遊びたい!」という思いがずっとあり、これが共通のモチベーションとなりました。

また、私たち玩具メーカーにとって、野球盤やボウリングゲームなどのアナログ玩具で最も苦労していたのは「プラスチック成形による製品躯体の表現力」でした。それがテレビゲームならすべてグラフィックで実現できます。これが実はささやかな喜びで、みな夢中になってグラフィックを描画していました。

小売価格は、当初の社長構想では「1万円を切るべし」ということでしたが、さすがにそれは難しく、結局、14,800円に決まりました。社内には「それは高い」「それでは売れない」という意見もあったことでしょう。しかし期待されなかった分、干渉もされず自分たちの信じる方向で自由に開発を進めることができたとも言えます。

今思えば、私たちはそもそも玩具メーカーであり、エンターテインメントが本業です。現に「ドンキーコング」のようなアーケードの人気コンテンツをクリエイトしています。しかも自社でその回路設計ができる技術力や半導体に関する知識もあります。信頼できる協力メーカーを得て量産体制も確立できました。そして何より肝心な開発スタッフのチャレンジ心。成功する条件は充分揃っていました。

こうして、1983年7月15日、任天堂のカセット式家庭用テレビゲーム機「ファミリーコンピュータ(ファミコン)」はついに発売されました。同時発売されたソフトウェアは「ドンキーコング」「ドンキーコングJR.」「ポパイ」の3タイトル。まもなく一世を風靡することになる「ファミコン」が世に出た瞬間でした。

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